HIGASHIYAMA, TOKYO

02/05/*12 連帯を求めて孤立を恐れず

川上村は先日、-22℃まで下がったらしい。
ついに、-20℃台になってしまった。
千曲川の川面からは蒸気霧が発生してさらに寒そう
な景色になっていたらしい。
らしいというのは1月の22日以来、川上村には行っ
ていないから。

6年間、臥せていた父親が死んで、いろいろと忙し
かった。
しかし、すべて終えてみると何だか昔の事のよう
にも思えて来る、そんな濃密な10日間だった。

生まれは北海道の帯広、昭和も始まったばかりの
3年(1928年)の端午の節句(5月5日)だから、生まれた
子供の名前は"節男"
節男クンの生家は節男、小学生の頃に穀物相場に手
を出してスッカラカンになり一家は離散

喰いぶちの宛がないから、死んだ父親の骨を持って
遠縁をたよって節男クンは満州へ、先方だって喰う
もんが無い時代だったから、ずいぶんヒドい目にあ
ったらしい。
その後、食べる為に戦争末期に志願入隊。
入った軍隊は、負け戦が濃厚な時期だけに、こっぴ
どくシゴカれ、後は特攻機に乗るだけと広島は呉に
転属、そこで幸運にも終戦となる。
呉から大阪、そして東京へと節男クンは戦後の何も
なかった時代からファッションを誰もが喉から手が
出る程、欲していた時代に東京目指してジリジリと
北上を続け、東京に辿り着いたのち、銀座のダイア
ナ靴店で販売を始める。
売れたんでしょう、きっとその頃は。
節男クンは閃く。作る側に回ったらもっと稼げる....
そして、いきなり浅草で職人抱えて自分でデザイン
した靴を作りはじめる、いわゆる製靴業に突如転向。
オリンピック前の高度成長期。作るものはなんでも
飛ぶように売れたらしい、その時期に作った靴を納
品していた銀座カネマツの紹介で節男クンはとうと
う、当時の皇太子妃美智子さんの靴を作る事になる。
私が生まれる1961年ころから71年ころまで10年間
自分で皇居に出向き採寸、デザイン、製作をしてい
た。皇居に採寸に上がる前日の、緊張でぶっ飛んだ
顔になってる節男くんの顔は家族も笑えない程だっ
たらしい......

そんな元軍国青年とデザイナーという本来交わらな
い相性の悪い要素を抱えていた節男クン。
この皇室御用と呉で飛行機待ちで死ねなかった元軍
人としても満足というか美智子妃殿下の足を触った
からか、絶頂に達してしまう。

突如、あっさりと工場(こうば)を閉めて、職人の行
き先捜して、古い家財道具をゼーんぶ捨てて、浅草
を後にする、向かった先は遠縁が1人いるだけの愛
知県の外れにある、まったく未知の農村。その村の
小さい山の中腹に自分でデザインした家をたてて
コレまでの和風なものと違う、ピカピカでモダンな
家財道具を揃えてモーターボートまで買い込んで始
めた、好き放題な新生活。

その後の人生は骨董もボートも止めて、ゴルフ一筋
に打ち込んで、ついに1月31日に
83歳でホール・アウト。

こうして、節男くんは戻る場所を持たない人生を
生き切った......
ユカリのある場所、仲間、仕事と潔くサヨナラをし
て見事、節男くんは一度も馴染みの場所を振り返る
事なく、新しい場所、仲間、仕事を獲得しながら新
しい場所で暮し、そして死んだ。

お父さん、 欲を言やぁキリがないけど、もう充分
楽しんだでしょ?     
おかげで色んなものを見せてもらえました
ありがとう。    

(小林)

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